地域想いな人たちと子育てしながら暮らしていく|富岡町・鈴木香織さん
「富岡の人たちと出会って、ここで子育てしたいと思ったんです」そう話すのは、2019年に富岡町へ移住してきた鈴木香織さん。旦那さんが仕事で富岡町へ足を運ぶようになり、第一子出産後に家族での移住を検討し始めました。原子力災害の影響などが分からず不安が大きかったものの、一週間のお試し移住を機に、気持ちが前向きになったそうです。移住へのステップを丁寧に、思い切りよく進めた香織さんに、富岡での暮らしについて今の気持ちを聞いてみました。
ー富岡町に移住する前は、どんな暮らしをされていましたか?
出産するまで、環境系NPOの代表事務局長として、プロジェクトの企画運営に加えて、経理や事務などの運営サポートを6年ほどやっていました。
福島とのご縁ができたのもこの仕事がきっかけです。福島県の中心部にある、中通りの有機農家さんから野菜を仕入れて販売しながら、福島の現状を伝える勉強会などを開催していました。今もその有機農家さんとは頻繁に交流しています。
そういったNPOの仕事を通じて夫と出会い、2015年に結婚。夫と一緒に福島のいろんな地域をまわっていたのですが、彼は富岡町に惚れこんじゃって。一足先に2017年から住民票をうつし、富岡町で地域活動や移住支援を行う「ふたば地域サポートセンターふたすけ」を設立しました。そして週末だけ私たちのところへ帰ってくる二拠点生活を続けていました。
私は埼玉県の実家で長女を産み、その後も実家に身を寄せ暮らしていたんです。夫と離れて暮らしながら、これからのことを考えていました。
ー家族で富岡町へ移住するのを考えるなかで、葛藤されたこともあったそうですね。どんなことが気がかりでしたか?
東京電力福島第一原発事故(以下、原発事故)の影響については、頭を悩ませました。環境系NPOに勤めていた一つの理由でもあるのですが、東日本大震災以前から、原子力発電(以下、原発)の問題には関心があったんです。原発がもたらす地域への影響や原発のゴミ処理について研究しているなかで、地域が原発と共存する難しさを感じてきました。「原発事故があった場所にはいくもんじゃない」という声も聞いてきたし、何より放射線による子どもへの健康面が不安でした。
ただ、「支援するのはいいけど、住めないでしょう」という意見には、モヤモヤしてたんです。私は電力の一消費者として、廃炉の行く末もちゃんと見ていきたかったし、地元にちゃんと根を下ろして原発問題のことも考えたい。でも、当時は情報が正しいかもよくわからず、漠然とした不安を抱えていました。
そんな中で、富岡町で暮らし始めた夫からは「現地の人は原発事故に対する葛藤を乗り越え、故郷をもう二度と失わないように頑張っている」みたいな話を聞くわけです。覚悟を決めた人たちの中にいる夫と、距離が離れた東京にいる私の意識の違いは、なかなか解消できないままでした。
ー子育てをしていると、原発問題はなおさら気になりますよね。でも、その後、富岡町への移住を後押しするできごとがあったようですね。
夫から「お試し移住しに来ない?」って声をかけられ、富岡町の隣にある楢葉町で、生後半年の娘と一緒に1週間くらい暮らしてみました。その時に、富岡や楢葉で実際に暮らしている人たちに、たくさん会ったんです。おしゃべりをするうちに、ここで生活するイメージを持てました。
同世代の女性が、起業をして活躍している姿も印象に残ったんです。集まってくる一人ひとりが地域への想いを持っていて、困ったことがあればこのメンバーで乗り越えていけるんだろうなという無敵感を感じたのをよく覚えています。これは、埼玉にいたら感じられないものだろうなぁって思いました。
自分の気持ちを受け止めてくれる人がいる。地域を想い活動する大人と一緒に、子育てができる。この場所で暮らすみんなを見ていたら、移住への不安はすぅっとなくなっちゃって。1カ月後には、私と娘も富岡町で暮らし始めました。
ー移住の決め手は人だったんですね。富岡町での子育ては、実際どうですか?
縁がなかった場所ではあるものの、お試し移住の時にできた友人たちがいて、夫も友人や知人が多かったんです。なので、一人ぼっちで子育てしている感覚は最初からなかったですね。みんなと助け合って子育てしている感じです。
家族ぐるみのLINEグループをつくっておいて「明日ちょっと子どもをみてもらえない?」なんて相談しあうこともよくあります。そうすると、一人くらいはスケジュールを調整できるんですよね。わが家で預かることもあります。
住んでいる団地でも助け合い。子どもをみるのもそうなんですが、ママ友に話を聞いてもらったり、一緒にご飯を食べたりして、子育てしながらリフレッシュする時間をもてているのかなと思います。どうしよう……と思ったときに、声をかけられる友人の顔が浮かぶのは幸せなことですよね。
カバーできない部分は、地域にあるサービスも頼りますよ。この前は「いわき緊急サポートセンター」を使いました。ずらせない予定がある前夜に、子どもに発熱の気配があって。急なことだし、子どもの様子も変わるかもしれないと思いながら電話すると「当日の朝まで、利用するかどうかわからなくても大丈夫」と言ってもらえたんです。心強かったなあ。緊急サポートという名の通り、事前予約なし(※)で利用できるのがありがたかったです。
※予約は必要ないですが、利用者情報やアレルギーの有無などの事前登録が必要です。
ー富岡町で暮らしてみて、香織さん自身「変わったなあ」と思うことはありますか?
おしゃべりになったような気がします。人と話すのはあまり得意じゃないなと思っていたんですが、富岡町にきてからはホームパーティをしたり、子連れの方にはつい話しかけちゃったり。周りからも「社交的だね」と言われることも増えました。
私がこちらに来たばかりの頃に、声をかけてもらって助けてもらうこともたくさんありました。だからこそ、助け合っていきたい気持ちは強いんですよね。
ー最後の質問です。香織さんは、これからどんなことをやってみたいですか?
富岡町に来てからは、事務や経理の仕事で事業のサポートをしてきました。富岡には熱い思いをもった仲間が多いので、私のできることで応援したいんです。もともと仕事は好きだし、手に職をつけるという意味でも、子育てしながら仕事をしたいですね。
あとは、原子力災害をはじめとした環境問題についても考え続けたい。税金の使い方や廃炉の問題など、この場所に暮らすみんなで話し合いながら決めていける富岡町になったら、子どもたちも幸せに育つんじゃないかなと思うんです。
有機農家さんに通っていたころ、土地を使い捨てすることなく、何度も耕して再生させて、野菜をつくり、農家さん自ら消費者に野菜を届ける姿に感銘を受けました。富岡町は、原発事故で一度土地が汚染されてしまったけど、新しいまちづくりを自分たちでやっていこうという人がたくさんいる場所。自分もその中の一人になって、子ども達に背中を見せていきたいです。
取材・文:蒔田 志保 / 写真:中島 悠二